二十一世紀の往相と還相(改訂版)by 高杉公望)

 

一、

 米国の右派にもさまざまな政治潮流があるのだろうが、そのバランスの上に共和党の大統領権力はのっかってきた。しかし、小ブッシュ政権は、そのうちでも最も空想的で超主観的な潮流に完全に軸足をおいている。

 

 なんというか、二次ブント(第二次共産主義者同盟)でいえば、あたかも塩見孝也がボルシェビキ選挙(=不正選挙)で議長になってしまったかのようなものだ。この喩えはスケールが違いすぎるので冗談半分に聞こえるにしても、軍事によって混沌とした過渡的な世界情況に一挙に決着をつけようとする超主観主義によって、すべてが台無しにされてしまうところがそっくりなのだ。

 

 赤軍派は二次ブントの主流にさえなれなかったが、その後の日本の政治・社会情況を根底的なところで御破算にしてしまったことはいうまでもない。ましてや超権力・米国が小ブッシュ政権に占拠されている今の事態は、文字通り国際社会的規模で長い混迷の時代を喚び寄せるものとならざるをえないだろう。小ブッシュ御一行様が、殉教者的な自己陶酔の表情でその長き苦難を観念的にのみ引き受けんとしていることは、衛星放送をつうじても垣間見ることができる。

 

 十年後、世界の最高権力を恣意的に濫用した小ブッシュが、ミロシェビッチのように国際司法裁判所に引き出されるか、せいぜいピノチェトのように政治取引によってお目こぼしにあずかれるか。いずれにせよ小ブッシュは、後世の世界史の教科書において小ピピン、小ビットらと同様に、とはいえまったくの悪名として、親たちよりももっと著名な人物となるであろうことは間違いないところである。

 

 本来、アメリカの「法と秩序」感覚はたいしたものである。それは、「十二人の怒れる男」のような陪審員制度をとりあげた映画だけではなく、いわゆる西部劇をみても見事なものである。無法者のガンマンも、決して先に拳銃に手を触れてはならない。立会人が目撃している場合は、お互いに挑発と牽制の言葉を投げ合いながら、先に相手に拳銃をふれさせ、その刹那、早撃ちによって相手を倒す。しかも、人殺しは安住を許されることはない。さすらいの荒野へと旅立って行かざるをえないのだ。

 

 小ブッシュの外交のことをさいしょ保安官外交という人がいた。これは伝統的なアメリカの「世界の憲兵」路線にはあてはまるが、小ブッシュのように国際法を無視するものが保安官であるはずはなく、カウボーイ外交とよばれるようになった。しかし、農場に定着して牧畜産業にいそしむ牧童と、お尋ね者(全国指名手配)のアウトローとは、西部劇ではまったく別の範疇である。小ブッシュの外交は、アウトロー外交である。しかも、先に相手に手を出させるのではなく、先制攻撃権を主張し、事実、先制攻撃をやってのけた、映画でも悪玉どころのアウトローである。

 

 そして、もし国際法無視の小ブッシュ政権の幹部連中に対する訴追がグローバルな大衆運動の力によってなされるのであれば、小ブッシュは「理性の狡智」に踊らされて世界史の階段を一段ステップアップさせる道化としての役回りを演じさせられたのだと歴史哲学的な言い回しも可能となるだろう。(2003/03/12、のち加筆修正)

 

二、

 かつて吉本隆明は、政治(共同幻想)と文学(自己幻想)、それに対幻想はそれぞれまったく別の次元にあると強調した。そのさい、吉本は文学者、生活者として、文学(自己幻想)や家族(対幻想)に政治(共同幻想)の論理が介入してくることを拒絶する部分に強度をおいた形で提出したのだった。

 しかし、そのことは、政治(共同幻想)の位相に対して、文学(自己幻想)や家族(対幻想)の位相を持ち込むことを否定するということと、完全に互換的なことでった。

 

 吉本は文学青年としてぎりぎりまで大東亜戦争について考え抜いたつもりであったが、それはまったく無力だったことを突きつけられたのが戦争体験だったといっている。戦争は政治(共同幻想)の領域にあり、それは固有の位相おいて社会科学的に考えられるしかないということが、戦争体験からの教訓だったと。

 

 そのような観点のもと、現在を国民国家の法秩序体系から国際法の秩序体系への過渡期(の前半)にあるとみれば、いま起きていることは自明といえる。そんなにわからないところはない。そこにおいては、ブッシュもフセインもどちらもいわば国際法の秩序形成にたいする悪質なる破壊者、反秩序派として現れている。だから、どうしても彼らへの批判の論理は秩序派の言葉になってしまう必然性がある。そのため、人によっては、日共・民青や市民派の言葉と同質の言葉にならざるをえないという忌々しさを感じてしまう。

 もっとも日共・民青は、市民民主主義の衣の下にプロレタリア「執権」一党独裁革命を隠しているので一蹴するのはラクなのだが、ただの市民派をどう批判できるのか、そこが苦しく難しくなってきているという受感としていまの状況はある。

 

 第三次産業を基盤とした先進諸国の大衆(コギレイで半知識的・半進歩的な小市民の群れ!)にとって、のぞましい政治(共同幻想)の表出・表現のされ方の構造はどのようなものか。そして、第一次産業を基盤とした国々、第二次産業を基盤とした国々が重層的に存在している国際社会において、のぞましい国際法・国際政治の秩序システムの表出・表現のされ方とはどのようなものか。

 

 そうしたことを考えるのは、いわば秩序派的な自然過程・往相としてあり、また啓蒙的・進歩的・市民派的な言葉としてしかありえないということになる。

 それに対して、既存の秩序体系が桎梏たるアンシャン・レジームと化している歴史的な局面においては、反秩序派的であることが自然過程・往相としても意識過程・還相としても、知識人・官僚の課題としても大衆の課題としても、それほど矛盾することはないことになりえていた。しかしながら、新しい秩序の生成期には、そうはなりえない。

 それは、本格的な「革命」のときがくるまでは「昼寝」でもしていればいい、といいながら数十年も数百年も寝続けなければならないことになるという矛盾でもある。

 

 新しい秩序形成期の自然過程・往相と意識過程・還相の具体的な様相について、考え直さなくてはならないという問題が浮上してきているのではないか。どうもいま、そんな気がしてしようがない。(2003/03/24、のち加筆修正)

 

目次ページ戻る   トップページに戻る

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送